自宅の遍歴


[超高性能2世帯住宅]
 

過去に学び




以下、本編で紹介させていただく住宅がなぜそのような設計となっているのか、その意図をご理解いただくために旧宅などについても触れておきたいと思います。


【旧宅】

1階
2階

有名住宅メーカの設計施工です。図面は最終的な形態の平面図です。
父・母・私・妻・息子・娘の6人で暮らしていました。1Fの洋室1は私が結婚して両親と同居する際に両親の寝室として増築した部分です。
新築当初は1階図面右下の1室が無い状態で、父・母・私・妹の4人で暮らしていました。当時私はまだ学生で、この家は私とかかわりのないところで話が進んでいたようです。着工の直前になって知らされました。
学生とはいえデザイン専門学校のインテリア科で建築も勉強していたので、少しくらいは相談してほしかったと思ったのを覚えています。
30年間この家に暮らしながら、いくつもの不満を抱えていました。そして新しく家を建てる機会に、それらの不満を解消できれば理想の家に近づけるのではないかと思いました。
ここにあげる私の不満は、おそらく皆さんに共感していただけるのではないかと思うので、参考にしていただけることを願います。
新築当時は玄関ホールの吹抜けに感動したり、自分の部屋をもって家具の配置換えの楽しみを知ったり、生活の変化に合わせた使い方の工夫をしたり、多くのことを学ばせてもらった家です。

■間取りについて

典型的な1990年代の間取りではないかと思います。
1階にLDKと二間続きの和室、2世帯同居を考慮した2階の広めの部屋、1坪ずつの脱衣室・浴室、廻り階段、吹抜け、おしゃれな出窓・フラワーボックスなどなど。当時の流行ですね。

床面積
1F… 86.12m2(新築時 69.56m2,増築分 16.56m2
2F… 57.14m2
延べ床面積
143.26m2(新築時 126.70m2,増築分 16.56m2
居住期間:1990年~2020年

1階はほぼ両親のためのエリアとなっています。1階の玄関脇和室は息子が中学生になったとき、応接用に使用していた部屋を子供室として割り当てました。
2階は我々世帯のエリアです。私・妻・娘の3人はほとんど2階のリビングを使用していましたが、息子は1階と2階を頻繁に行き来していました。

■使えない和室

この間取りの一番の問題は1階中央にある和室です。新築からしばらくは人寄せの機会があり、玄関わきの和室と続きで広間として使用していましたが、その習慣もなくなると使い道のない部屋となってしまいました。
次第に物が置かれるようになり、とはいえ仏間があるため納戸のように闇雲に物を詰め込むわけにもいかず、南向きの部屋にもかかわらず廊下から直接出入りできないため個室としても使えず、結果的に雑然と物がある通路のような無駄ともいえる存在となっていました。

■ベランダへのハードル

2階ベランダに洗濯物を干すのですが、ベランダへ行くには娘の部屋(2階中央洋室)か我々の寝室(2階左洋室)を通らないといけません。
妻か私が行くには寝室を通ればいいのですが、母が通らなければいけない時、娘は部屋を通らないでと言うし、寝室を通るのも気を遣うしベランダへ行くのも一苦労です。

■水廻りは大混乱

左図は1F水廻りを拡大したものですが、扉の位置(赤く塗った部分)に注目してください。トイレ・脱衣室・キッチンの出入口が見事に近接しています。
実際、それぞれの部屋に出入りする3人が鉢合わせする場面が何度かありました。こういうプランは出来るだけ避けたいものです。

脱衣室は一般的な1坪のタイプです。
洗面化粧台と洗濯機を置いて、脱衣スペースが1帖分とれるので一般化した広さだと思いますが、かなりシンプルに使わないとすぐに使い勝手が悪くなります。
我が家は洗面・洗濯機のほかに、乾燥機、タオル・バスタオル・下着用の戸棚を置いて、洗濯洗剤(予備含む)、洗い物カゴ、バスシューズなど収納場所がないものは床の空いているスペースに置かれ、物の隙間で着替えをする状態でした。
最近では収納を考えて広めの脱衣室としたり、ニッチを作って収納にするなど工夫したプランも増えてきました。

また図のように階段下を利用したトイレは、有効に使える部分が狭く窮屈なので避けたほうがいいでしょう。階段下にトイレを配置しなくてすむプランはきっとあるはずです。
階段下のスペースはもったいないと思いがちですが、他に良い配置があるなら無理に使う必要はありません。

■ あふれる収納・役立たずの収納

多くの方の悩みの種、収納です…
問題点を分析するため、平面図に収納(物)の分布を色付けしてみました。

1階

2階

…適正に収納されている
使用頻度は少ないが、保管としての役割の部分も含んでいます。
比較的手が届きやすく、物の出し入れがしやすい場所が多いですね。
…収納しきれない/はみ出た物
問題の部分です。
圧倒的に収納の足りない場所や、物の出し入れがしにくい場所がこれにあたるようです。
扉の開け閉めがしにくかったり引き出しを引き出しにくかったり、物の出し入れがしにくい場所は収納しにくかったり整理がしにくかったりして、使用頻度の低いものが取りだしにくい場所に移動しがちです。(物入や引き出しの奥の方)
やがて物がいっぱいになって周辺にある椅子や床に良く使う物が放置されるようになります。
…収納したきり出されない
赤の部分よりさらに出し入れがしにくい場所、使わない部屋、そもそも必要のない場所などにある収納です。

こうしてみると、
適切な場所…手が届く、出し入れしやすい
適切な大きさ…奥行きや幅に無駄がない
必要な場所…そこに本当に必要か、階段下は使いにくい
ということに気を付けると収納がうまく行くのではないかと思います。
とはいえ、最終的には使う側の意識でしょうか…不要になったものは捨てる、しまうべきところにしまう…分かってはいるけど出来ないんですよねぇ。

収納を考えるときには、まず現状の「物」分布マップを作る。
現状を把握したうえで、適切な寸法の収納場所必要な部屋の手が届く開閉しやすい場所に設けること、あらかじめ窓や家具の配置を考慮して使えない収納場所を作らないことがポイントです。
あと床に座る生活をすると、床に物が散らばる傾向にあります。

■ 開口部が部屋を狭くする

左図は2階の中央洋室を拡大した図です。
一見よくある6帖の部屋に1帖の物入が付いた子供部屋ですが、開口部の配置が悪いためひどく使い勝手の悪い部屋になっています。妹がこの部屋を使用していた当時ことあるごとに使い勝手の悪さについて不満を漏らしていたため、開口部の配置の重要性について気づくことができた有り難い部屋です。
廊下への出入口ドア、物入の引戸、ベランダへ出る掃き出しのサッシ。これらの開口部を有効に使うには、図の赤い斜線のスペースに物を置くことができません。
この部屋にベッドと机を置くには図のような配置か、ベッドと机を入れ替えた配置しか選択がありません。ただし両者を入れ替えると、ベッドが物入側に20cmほどはみ出すことになります。結果的にこの形しか置きようがないのです。
娘はこの配置で使用していましたが、本棚を置けないと不満でした。

部屋の有効スペースを広げるには、ベランダへの掃き出し窓を図の青い点線の位置にすればよかったのです。そうすれば四角い点線の物を置くスペースができます。

■ 居室以外は家の外?

なにしろ冬寒く夏暑い家でした。 中途半端に断熱が効いているので、夏は昼に取得した熱が陽が落ちても逃げて行かず、エアコンを付けていない部屋は夜でもサウナ状態です。
当時は「長時間滞在する部屋(居室)以外は冷暖房をする必要がない」という考え方がまかり通っていたため、エアコンなどは各部屋に設置してドアを締め切って使用するのが普通でした。我が家ではエアコン6台、ファンヒーター5台、こたつ2台、脱衣室にセラミックヒーター、を使用していました。それでいて一歩廊下へ出るとまるで外に出たかのような気温なのです。
断熱気密がしっかりとしていれば、エアコン1~2台で済むのに、無駄なことをしていたなぁと思います。

■ 人気者?嫌われ者? の吹抜け

玄関を開けるとパッと明るく広がりを感じることのできる吹抜けのあるホール。当時はまだ新鮮でちょっと贅沢なイメージがありました。学生だった私も学校の課題で吹抜けのある空間を積極的に考えたりしていました。
が、何年か経つと次第に不満が芽生え、それがどんどん膨らんでくることになります。
その最たるものが夏の暑さ。吹抜け上部にあるFIX窓、玄関ホールや階段に光を取り込み明るくしてくれるのはいいのですが、熱も一緒に取り込みます。手も届かないし開けることも無いだろうとFIX(嵌め殺し)窓にしたのでしょうが何しろ熱の逃げ場がない。そのうえ掃除もしにくい。こういう吹抜け上部の窓にはたいがい何匹かの死んだ虫が転がっています。
天井からぶらさげた高価な照明もほとんど出番がないままホコリをかぶってます。結婚して同居するときには、吹抜けをつぶして1部屋作ろうという案もありました。

吹抜けは、明るい開放感、上部に空気の逃げ道を作れば換気がスムーズ、上下階のコミュニケーションが取れる、などなど良い面があるので上手に計画すればもっと魅力のあるものになるはずです。

■ 振動・音

敷地は小田急線の高架の駅から50mほど離れた場所に位置していました。
電車による音や振動については物心ついたころには慣れていて、窓を開け放していない限り、それほど気になりませんでした。電車よりもむしろ車やバイクに悩まされました。
1970年代は道路を走る車はほとんどなかったのですが、1980年代から交通量が増え始め、しまいには夜中でも大きなトラックや爆音のバイクが通るようになりました。寝ている間にトラックが通るときは、まるで地震のような振動と音でとび起きたことも何度かあります。これには本当に慣れることはありませんでした。
この振動と騒音が実は一番つらかったかもしれません。

■ 不満のない家

新しく建てる家を不満のないものとするために、このように日ごろ感じていた不便・不満を思い出しながら、それらをひとつづつ解決することで理想に近づけるはずです。
もちろん予算や法律や様々な条件の下で、全ての問題を満足できるものではありません。また、ひとつの問題を解決するために新たな問題が発生することも十分考えられます。
ですが、あきらめずに解決策を考え続けることで、きっと満足のいく家づくりをすることが可能であると信じています。

【生 家】

生まれてから20歳までの間居住していた平屋の家です。父・母・私・妹の4人で暮らしていました。
左の図面は最終的な形態の平面図です。水色の部分は私が小学6年の時に勉強部屋として建てられた離れのプレハブ6帖、赤色の部分はその1年後に増築されたプレパブと母屋を連結する部屋です。

はじめは和室1を応接室、和室2を寝室として使っていたようです。私たち兄妹が大きくなるにつれ、和室1を両親の寝室兼応接室、和室2を私たち兄妹の寝室として使用するようになりました。
その後、私はプレハブに和室2は妹の部屋となって私が20歳になるまで使用されました。
今回、昔の記憶ひねり出しながら図面にしてみて、改めて見るとこの家の遍歴がよみがえって面白くもありますが、よくここに20年も住んでいたなぁとも感じました。

■ 間取りについて

南側に3部屋を並べて、北側に水廻りを配置する間取りとなっています。昭和の一般的な住宅です。

床面積・延べ面積
64.29m2(新築時 49.69m2,増築分 14.60m2
居住期間:1970年~1990年


昭和初期は農家をやっている家がまだ多く、明治・大正に建てられた広い家(本家)は長男が継いで、次男以降は別の敷地や本家の敷地の空いているところに分家として新しく家を建てて住むのが一般的でした。
そして分家として建てられる家の間取りが、だいたいこのような南に3室、北に水廻りという形でした。
そういう家に子供が生まれ成長してくると、子供が勉強に集中できるための個室が必要となります。いわゆる勉強部屋です。
1960~70年代の親たちは、自分たちが子供の頃は「勉強よりも家の手伝いをしろ」と言われ、大人になって勉強の大切さに気付き「あの頃もっと勉強していれば」との思いから、自分の子にはもっと勉強してもらいたいと、集中できる勉強部屋をつくることを重要視していたのではないかと思います。「教育ママ」という言葉が生まれたのもこの時期ではなかったでしょうか。

とにかく勉強部屋が必要となるのですが、机を置く場所がない、学生服や体操着の他しゃれっ気が出てきた子供の服を入れる場所がない、ステレオが欲しいと言い出す・・・、など既存の部屋ではとてもまかないきれなくなってきます。
そこで家を広げて部屋を造ったり、2階に増築したりして、上の平面図のようにこの時代の住宅はある意味非常に個性的な印象を受けます。虫や動物の巣のような野性味すら感じます。
私のような第2次ベビーブーム(1971~74年)前後に生まれたいわゆる団塊ジュニアが中学入学を迎えるくらいの頃には、住宅メーカーなどで建て替えをする家も多くなってきます。
住宅メーカーで建てられた、すっきりした間取りで新建材をふんだんに使った2階建ての家に、自分の部屋を持っている友人をうらやましく思ったりもしました。

■ 奇妙な浴室

まず、脱衣室がありません、台所から直接浴室へ入ります。昭和はこれが普通です。平成になって私が20歳、妹が17歳になるまでこのまま使っていました。
思春期になると流石に台所で裸になるのに抵抗があったので、下着姿のまま浴室に入り脱いだものを引戸の隙間から洗濯機の前へ放り出していたように記憶しています。妹がどのようにしていたのかは覚えていません。

もともと浴室の床は台所の床より40cmほど低く、モルタルの床にタイル貼りの浴槽が置かれ、洗い場もモルタル床の上にすのこを敷いただけのもでした。風呂釜は石油式の内釜で勝手口からマッチで点火して風呂を沸かしていました。
時期は記憶にありませんが、FRPの浴槽とガスの内釜に改修しています。父が伯父の手伝いを借りながら設置しました。
浴槽とガス釜は既存のモルタル床に設置して、洗い場は台所の床から5cmほど下げた高さに高くするという改修です。
洗い場は、既存床の上にコンクリートブロックを何段か積んで(ここが定かではないのですが)その上にベニヤをまたその上に厚さ5mmほどのポリエステルマットのようなものを敷いて、モルタルを塗ったようなやり方だったと思います。数か月後には表面がバリバリと割れて、その上に洗い場マットを敷いていました。
ガス釜の燃焼確認用の小窓の位置が洗い場より低くなるので、ガス釜と洗い場の縁は20cmほど隙間が空いています。図面の洗い場がおかしな形をしているのはそのためです。

ガスの風呂釜に関しては、その点火の際つねに恐怖を感じていました。
片手でつまみを押してガスを開栓し、もう一方の手でハンドルを回してカチカチと静電気を発生させて点火する方式だったと思いますが、年々火が付きにくくなり着火したときに「ボンッ!」と大きな音を出すので、そのうち爆発するのではないかと思いながら操作をしていました。
虫もよく出ました。ゴキブリやゲジゲジ、ヤスデはもちろん、ナメクジ、ムカデなども出てきたりします。
当時の浴室は本当に恐怖の場所でした。

■ 水辺を抜けて

玄関から居間への動線を入れてみたら、洗面所、トイレ、流しの脇を抜ける水辺のコースになっていました。
台所のテーブルを回りこむように迂回しています。トイレへ行くたびにこのルートをたどっていたのですね。当時は、なんだか狭いなぁと思いながらも普通にこれで生活していました。
トイレは和式で小便器がありました。昭和50年頃に水洗に変わったように記憶しています。小便器の横には角付けの小さな手洗器、吐水口の下側にゼンマイのような蛇口がついているタイプです。

■ 居間への道のり

自室から居間への動線です。いびつな3帖ほどの部屋を抜けて、妹の部屋を通り居間へ行きます。トイレに行くにはさらに台所を抜け廊下に出てトイレに入るという流れです。
3帖の部屋は、父が風呂上りに机で髪のセットをしたり、母が和文タイプを打ったりしていました。
居間やトイレに行くには、その後ろをすり抜けるように通らなければなりません。
夏はサウナのように熱く、冬はサッシの結露が凍るほど寒いプレハブですが、自分だけの部屋があるだけありがたかったです。

■ 激変の20年間

この家に住んでいたのは、自分自身生まれてから20歳までと、心身ともに最も変化する時期でありますが、1970年から1990年という世相も変化に富んだ時期でもありました。
両親の2人暮らしからスタートしたこの家も、子供が2人生まれ人数が増え、電化製品の普及や下水道の整備など時代の変化と共に場当たり的に形を変えました。
こうした経験を踏まえて建て替えられた旧宅は、部屋数に余裕を持たせたり、2世帯同居を考慮したり将来のことを考えたものになっていきます。

【仮住まい】

居住期間:1990年(約6ヶ月間)

生家を建て替え、旧宅ができるまでのあいだ仮住まいしていた家です。
大正(明治後期?)に建てられたという、父の生家です。
すでに伯父の家族は隣に別の家を新築していたため、空き家となっていたこの家を借りました。
当初は茅葺屋根だったという古い家ですが、電気・ガス・水道は通っていました。現在は取り壊されています。

玄関を入った土間の上部に、表面を火であぶった黒光りのする竹がすのこ状に敷かれていて、小屋裏の物置として使われていました。これが子供の頃から非常に印象に残っていて、今回、小屋裏収納の床をすのこ状にするヒントとなりました。
私が子供の頃には年末になると親戚中が集まり、大人たちがこの土間で餅つきをしました。3家族分を作るので1日がかりです。土間でついた餅を8帖間でのして、広縁いっぱいに並べて乾燥させます。
風呂は1980年代の中ごろまでマキで焚かれていたように記憶しています。かまどや台所の土間は仮住まいで使用していた時もそのままでした。
今の時代、このような古民家に住むという体験をすることは困難なので、とても良い経験をしたと思います。


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